他者を自分であると思う〜「怒り」渦巻く社会で生きるということ(前編) 〜

2020.11.6

  • twittertwitter
  • facebookfacebook
  • lineline

久保多渓心 ( ライター・占術家 )

墨が織り成す一子相伝の占術 “篁霊祥命(こうれいしょうめい)” を主な鑑定手法とする占術家。他にも文筆家やイベント・オーガナイザーとしての顔も持つ。また引きこもり支援相談活動なども行なっている。

新型コロナウイルスが猛威を震い始めると、電車内や商業施設などでマスクをしていない人を厳しく叱責する、いわゆる「マクス警察」と呼ばれる人たちが増え、酷いケースでは暴行に及んだ事件なども報道されました。

また、緊急事態宣言や飲食店の休業要請下で、外出している人や、営業をしている店舗への攻撃的な振る舞いも問題になりました。

このコロナ禍で浮き彫りになったのは、人の中に厳然として渦巻く他者への「怒り」。

人は誰しも多かれ少なかれ、心の澱を抱えているものです。うまくいかないこと、後悔していること、傷ついていること、乗り越えられないこと、直視できないこと・・・それらに翻弄されないように、押しつぶされないように、日々折り合いをつけながら懸命に生きています。

これらは日頃、雑多な日常に押し留められてはいますが、地中に発生したマグマのように蓄積され、地上へ吹き出すのを待っているのです。そしてその火の粉は他者へと向かいます。

 

木村花さんの死

私は小学生の頃からプロレスファンでした。

当時、家庭環境の不和に心を痛め、入退院を繰り返す母と、多忙な父から十分な愛情を受け取っていないと感じていた私は、いつも漠然とした心細さと不安と寂しさに震えていたものです。

そんな時、父に連れられて行ったプロレスが私の傷ついた心を癒してくれました。そこにあったのは、人の心を陰湿に踏みにじるものでも、裏切るものでもなく、裸になった屈強な男たちが向かい合い、相手の技を真正面から受けて立つ、潔さ。時には感情を爆発させ、心を解き放つその姿に、自分の知る世界にはない「清さ」と「尊さ」を感じたのです。

相手に技をかければ、自分も反撃を受ける。つまり相手の感じる痛みは、自分の痛みでもあります。痛みを知った人というのは、とても神々しいのです。険しい表情の中にとてつもない優しさと愛を感じます。幼い私には、四角いリングで闘う選手たちが、ゴルゴダの丘で磔刑されるキリストのようにさえ見えたものです。

それから私は熱狂的なプロレスファンとなり、人生の様々な場面で背中を押され、勇気づけられて生きてきました。プロレスを知らない多くの人が「プロレスなんて...」と嘲笑する雰囲気というものを感じることもありますが、プロレスというものは「生きづらさ」を抱える多くの人たちの心の杖となってくれるものなのです。

そんなプロレスファンの私を、このコロナ禍に襲ったのが女子プロレスラー・木村花選手の訃報でした。様々な媒体で、たくさん報道されましたので、その死の経緯をご存知の方は多いかもしれません。

木村花さんは、女子プロレス団体「スターダム」の看板スター選手。将来を嘱望され、いずれ日本にとどまらずワールドワイドに活躍する選手になるものだと誰しもが固く信じていました。

彼女は、昨年よりリアリティ番組の「テラスハウス」に出演するようになります。その出演もプロレスをメジャーにしたい、特に自分と同世代の若い女性にこそ、会場で生のプロレスを観てもらいたいという切なる願いが込められていたものでした。

この「テラスハウス」内での彼女の言動が元で、TwitterやInstagramなどのSNSで執拗な誹謗中傷を受けることとなります。

私は彼女のSNSをフォローしていました。気丈に振る舞う投稿の端々には、他者ではなく自分や自分の人生を責める心の叫びが見られ、胸が痛みました。

そして5月24日未明、彼女は自ら命を絶ってしまいます。

SNSで広がる「怒り」の炎

誰からも愛され、輝かしい未来が待っていたはずのまだ22歳の1人の若者は、SNSに跋扈する、" 他者の言動に過剰に反応する人たち" の利己的な思考によって追い詰められ、命を落としたのです。

SNSは人間の愚かさを浮き彫りにします。

著名人の不倫、事件事故、薬物などのスキャンダルがひとたび起きれば、匿名性に担保されつつ、あたかも自らが「正義の権化」であるかの如く、一方的に人格を否定し、攻撃します。他者の観念、他者の価値観を認めることが出来ないからです。

その著名人を責めても許されるのは、その問題に関わった当事者だけであるはずです。自分は蚊帳の外にいる部外者でしかなく、問題を起こした当事者の人生の機微や、心の叫び、そこに至った深い経緯も知らないのです。自分の小さな、小さな物差しで他者を測ることなど出来ません。

著名人のスキャンダルは、私たちが日頃忍ばせている「心の澱」「マグマ」に火をつけます。自分がいかにも「正義」であると思いたい、「正しい」と思いたい欲求が、その着火のエネルギー源です。

一度「怒り」の炎に火がつくと、それはメラメラと燃え盛り、他者どころか自分さえも傷つけます。しかし、この炎で自らが負った火傷に気付くのは、大抵かなり時間が経ってから。「怒り」を発散している間は、溜め込んだマグマを吐き出している状態ですから、本人は開放感に満ち溢れ、恍惚を感じるのです。

「怒り」に根ざした「幸せ」はあり得ない

私の行っている「篁霊祥命」という鑑定にご相談をいただく方の中にも、ご両親のどちらかや、配偶者、友人知人などに積年の憎悪を抱えてしまっている方が見受けられます。

誰かへの「怒り」や「恨み」が根底にあるからこそ、それがバネになって私は社会的に成功しているのだ、人生を謳歌しているのだと主張される方も時折いらっしゃいますが、私はそうした方々の「成功」や「幸せ」が長続きしているのを見たことがありませんし、その「成功」と「幸せ」が、「怒り」や「恨み」に根ざしたものである以上、それは本当に価値のある「成功」や「幸せ」だとは思えません。

「怒り」や「恨み」の多くは、幼少期の愛の欠如や、挫折体験から生まれます。

愛されたかった、守られたかった、抱きしめられたかった、肯定して欲しかった、そんな切なる思いが届かなかったり、成し遂げられなかった時に、人は自分の心に鎧を着せ、周囲には強靭な防御壁を築き上げます。

いつも自分の期待していたことが、期待通りにはいかないのだ、裏切られてしまうのだと、まだ起こっていない未来に対して「傷つくことのリハーサル」を繰り返してしまいます。自分の心を防御することに精一杯だと当然、人の心を想像力いっぱいに慮ることなどできません。

自分で自分の未来を閉ざし、決めつけ、自分が傷つくことの怖さとばかり対峙し続けていることが、人への「怒り」と「恨み」を増幅させていくのです。

また挫折体験とは、進学できなかった、会社を解雇された、事業に失敗した、失恋した、離婚したなど、自分が思い描いていた希望に満ちていた未来が、突如として奪われる「喪失」の体験でもあります。

未来への希望を失うと、自分以外の全てのものがキラキラと輝いて見え、自分だけが深い闇の中で孤立しているように錯覚します。

この現状は、自分に責任があると思えているうちは良いのですが、次第に周囲が自分を嘲笑っているかのように感じ、不幸の数ばかりを数えることに時間を割いてしまいます。

自分と人との間にある「差」ばかりに意識が向き、自分がこうなったのは自分以外の誰かのせいだと責任転嫁を始め、そこに「怒り」と「恨み」が巻き起こります。

鎧を着ていると自分の身は守れますが、被った兜を通してだと他者からの善意の声は耳に届かず、相手の口の動きは、自分を非難しているようにしか見えません。また着ている鎧は、重く体にのしかかり、いずれ這いつくばるしかなくなります。

周囲に築いた防御壁も、自分を守るための手立てでしたが、それによって周囲と隔絶され孤独に陥っていることに気づかされます。

そもそも「他者」とは何か?

他者への「怒り」は必ず、自分に等しく返ってきます。

これは因果応報とか、引き寄せの法則など、宗教や、スピリチュアル的なものではなく、哲学的な視座です。

今は亡き文筆家(哲学者)・池田晶子さんの著書『14歳からの哲学』に基づいて、私たちが「怒り」を向けてしまう「他者」とは、そもそも一体何なのだろうということを考えてみたいと思います。

多くの人は、他者に「怒り」を向け、傷つけても、自分が傷つくわけではないし、その痛みも分からないのだから、自分と他者は違う人間なのだと信じています。

しかし、自分の目の前にいる人と、あなた自身は、本当に違う人間なのでしょうか?

他者が他者として存在している確証はあるでしょうか?

あなたの目の前にいる人は、本当に存在しているのでしょうか?

あなたの配偶者、子供、同僚、友人知人は明らかにそこに存在していて、体も自分とは別々ですね。あなたのお子さんが目の前で転んだとしても、あなたが傷を負うことはありませんし、あなたが痛みを感じることもありません。自分のこれまでの経験値を引っ張り出してきて、その痛みを想像することは可能ですが、痛いのはあくまでお子さんであって、あなたではありません。

体の痛みだけではなく心も同様です。あなたの友人が愛する人を亡くした時、その悲しみを想像して共に悲しんであげることはできますが、友人の本当の心の痛みを理解することはできません。

だからこそ、私たちは体も心も別々に存在している人々を他者だと認識しています。しかし、それを疑って見ることで、新たな世界を見出すことが出来ます。

あなたは、他者の目をもって世界を見渡すことはできませんね。他者の瞳に映っている自分の姿を見ることはできますが、他者の見ている、他者の視点での世界は、他者だけのものであって、あなたのものではありません。

これを自分に置き換えましょう。この世に存在するものは、あなたの目を通して起こっていますね。あなたが「見たり」「感じたり」していることが世界で起こっていることです。すなわち世界のすべてのことは、あなた自身に依っているということ。あなたが存在していなければ、世界は存在していないんです。

世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が世界なんだ。
自分が世界であり、世界は自分において存在しているのだから、当然、他人というものの存在もそうだということになる。世界にはたくさんの他人が存在していて、それぞれに生きているけれども、それらはすべて、自分が見ているその光景だ。もし自分が存在しなくて、自分が見ているのでなければ、それらは一切存在しない。なぜなら、それらを見ている自分が存在しないからだ。
*『14歳からの哲学 考えるための教科書』池田晶子(著)トランスビュー より

ここで分かるのは、哲学を通してみる「他者」とは「自分」であるということなのです。

池田晶子さんは、考えているのも自分、見ているのも自分であり、自分でないものが考えたり見たりしているということはあり得ない、自分という存在が絶対的なものであるから、これを「大きい方の自分」と仮定し、その絶対的な自分に気づいていない自分を「小さい方の自分」と仮定しました。

他人の痛みを分からない、心を理解出来ないのは「小さい方の自分」からしか世界を見ていないと説明します。

ですから、「怒り」を発散することは、他者への攻撃であるのと同時に、自分への攻撃でもあるということを意味します。

自分が存在する世界は、自らが築いたもの。あなた自身が主役であり、あなたこそが創造主なんですね。その世界を、自分で汚す必要はありません。自分を傷つける必要もないのです。

他人の痛みを、自分の痛みと同様に感じられるということは、つまりあなた自身が、あなた自身であることに「気づいている」ということ。自分に「目覚めている」ということなのです。それが「大きい方の自分」という視点に立っていることを示すものです。

自分が世界である証拠に、あなたの目にする「死」はいつも他者の「死」であって、あなた自身の「死」ではないのです。

 

次回は、「怒り」というものが心にどのような影響を及ぼすのか、そして人の意識が他者にどう作用し得るのかを見ていきたいと思います。

 

 

参考文献

『14歳からの哲学 考えるための教科書』池田晶子(著)トランスビュー

久保多渓心 のプロフィール

久保多渓心

画家の父、歌人の母のもと、福岡市博多区で生まれる。

バンド活動を経て、DJ、オーガナイザーとしてアート系イベント、音楽イベントなどを多数手掛ける傍ら、フリーライターとしても活動。

音楽雑誌でのアーティスト・インタビュー記事、書籍、フリーペーパー、WEBなどの媒体で政治、社会問題から、サブカルチャー、オカルトまで幅広いジャンルでコラムを執筆。

引きこもり、不登校、心の病など自身の経験を活かし「ピアカウンセリング」を主軸にしたコミュニティを立ち上げる。後にひきこもり支援相談士として当事者やその家族のサポート、相談活動にあたる。

現在は亡き父から継承した一子相伝の墨を用いた特殊な占術『篁霊祥命』や、独自のリーディングによって鑑定活動を行っている。2021年で鑑定活動は16年目を迎える。

月参り、寺社への参拝による開運術の指導なども行う。

『AGLA(アグラ)』スーパーバイザーを務める。

2020年10月より活動名をマーク・ケイより、久保多渓心に改名。

↓こちらからマーク・ケイ先生の鑑定を受けられます!↓
うらなってMe

おすすめ関連記事

2019 12/01

トイレにも心がある~トイレ掃除で人生を輝かせよう~『四季に寄り添い、祈るように暮らす(連載第三十一回)』

2020 06/10

姿勢美人を目指そう(前編)~お家で体幹を鍛え、踏ん張る力を手に入れる~『四季に寄り添い、祈るように暮らす(連載第五十五回)』