2022.2.3
【節分特集・再掲】善と悪の顔をもつ異界からの使者「鬼」〜 前編 〜『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界(第二十七回)』

「神使」「眷属」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在。
またの名を「使わしめ」ともいいます。
『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界』では、神の使いとしての動物だけでなく、神社仏閣に深い関わりのある動物や、架空の生物までをご紹介します。
動物を通して、神社仏閣の新たなる魅力に気付き、参拝時の楽しみとしていただけたら幸いです。
神使「鬼」
(※:2020年12月4日、7日公開記事に追記、再構成してお届けしています)
今回の神使は「鬼」。
動物というわけではありませんが、ここでは神仏に仕え、また時には神としても祀られる霊的な存在(特殊な生き物)として鬼を取り上げてみたいと思います。
鬼といえば、記録的なヒットととなった『鬼滅の刃・無限列車編』を思い出される方が多いのではないでしょうか。
なんでも興行収入は400億円を突破し、日本歴代興行収入第1位、2020年の年間興行収入でも世界第1位を記録して、大きな話題となったのは記憶に新しいところです。
『鬼滅の刃』は、家族を斬殺された主人公の竈門炭治郎が、唯一生き残ったものの鬼に変えられてしまった妹を人間に戻すために、鬼との戦いに身を投じていく物語です。
では、伝承に残る神仏と関わりのある鬼には、如何なる物語があるのでしょうか。
「鬼」の起源

『百鬼夜行絵巻(部分)』大徳寺 真珠庵所蔵
鬼といえば、頭に角を生やしていて(時に2本であったり、1本であったり)、口元からは鋭い牙が見え隠れし、手には金棒を持ち、虎の皮の腰布を巻いている、そんなイメージが真っ先に浮かびます。
このようなイメージは、京の大路を練り歩く妖怪たちを描いた室町時代の『百鬼夜行絵巻』などが原型となっています。
中でも最も古く代表的な作例である京都・大徳寺塔頭「真珠庵」蔵の土佐行秀の筆による絵巻では、赤い肌に尖った針のような髪の毛をした鬼の姿が描かれています。

『大江山絵詞』逸翁美術館所蔵
また同じく、京都の大江山に住む酒呑童子(しゅてんどうじ)と呼ばれる鬼を源頼光と家来の四天王が退治する物語を描いた『大江山絵詞(『大江山酒天童子絵巻』)』、狩野元信(狩野派二代目)の筆によるサントリー美術館蔵の『酒伝童子絵巻』(*こちらは伊吹山が舞台となっています)では、恐ろしげな鬼の姿が描かれています。
どちらも室町時代の作であるため、現在私たちが知っている鬼の姿が成立・定着したのは、この頃と見て良いでしょう。
古文献の中の「鬼」
鬼の外見が定まったのは室町時代頃ですが、それ以前から鬼の存在は知られていました。
鬼が文献に初めて登場するのは『日本書紀』です。
『巻第十九』欽明天皇5年(544年)12月の出来事として以下のような記述があります。
越(こし、今の北陸地方)の国からの報告によれば、佐渡島の北の御名部(みなべ)の海岸に粛慎人がおり、船に乗ってきて留まっている。春夏は魚をとって食料にしている。かの島の人は人間ではないと言っている。また鬼であるとも言って、(島民は)敢えてこれ(粛慎人)に近づかない。
島の東の禹武(うむ)という村の人が椎の実を拾って、これを煮て食べようと思った。灰の中に入れて炒った。その皮が変化して2人の人間になり、火の上を一尺ばかり飛び上がった。時を経て相戦った。村の人はいぶかしく思い、庭に置いた。するとまた前のように飛んで相戦うのをやめない。ある人が占って「この村の人はきっと鬼に惑わされよう。」と言った。それほど時間のたたないうちに、(占いで)言ったように、物が掠め取られた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/粛慎_(日本)

秋田のナマハゲ
天平5年(733年)に編纂された『出雲国風土記』の大原郡阿用郷の条には、一つ目の人食い鬼が登場します。
その昔、阿用郷といわれるところに目一鬼(まひとつおに)が現れ、村の男を襲って食べました。男の父と母は竹藪に身を潜めて、息子が食われているのを見ていました。男は食われながら、竹の葉が微かに動いていることに気づき、両親に見捨てられていると悟って「あよ、あよ」と泣いたといいます。
それが「阿欲(阿用)」という地名の由来となったのです。

「餓鬼草子」作者不明, Public domain
また、平安時代以降に広まった「六道絵」といわれる地獄絵図に描かれた、罪人の亡者を苦しめる役鬼(えんき)と呼ばれる鬼たちの姿も、多くの人々がもつ鬼のイメージ形成に一役買っているでしょう。
「鬼」の語源
平安時代中期の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、鬼の語源は「隠(おん・おぬ)」が訛ったものであるとされています。
鬼は、「見えない存在」「普段は隠れて姿を現さない存在」なので俗に「隠」といい、これが「鬼」へ転化していったものと考えられます。
中国などでは鬼といえば、「死者の魂」を意味します。その中でも、成仏できずに現世に残っている魂を鬼と呼んでいます。このことから台湾では心霊スポットのことを「鬼屋(おにや)」といいます。
他にも、生きている人を「陽」、亡くなった人を「陰」とし、「陰」が転化したものとする説や、神を守護し使える精霊「大人(おおひと)」が由来であるとする説などもあります。
また、鬼という字を「おに」と読み始めたのは平安時代以降からで、それ以前は「もの」「かみ」「しこ」と読んでいました。古史古伝として有名な『九鬼(くかみ)文書』も、鬼を「かみ」と読みます。
節分に豆を撒くのはなぜ?
「普段は隠れて姿を現さない存在」こそが「鬼」であるということ、そして「隠」が「鬼」の語源となっていることが分かりました。
まだ科学の発展していない時代には、疫病や農作物の不作、地震や台風、水害などは神の怒りや、鬼の仕業だと考えられました。
室町時代に編纂された辞典『壒嚢鈔(あいのうしょう)』によれば、節分の夜に豆まきを行うようになったのは宇多天皇の時代(867-931)であるとされます。
ここには、京都・鞍馬山の僧正が谷と、深泥池の方丈の穴に住む藍婆揔主という二頭の鬼神が都へやって来て暴れるのを毘沙門様にご教示で、鬼の住む穴をふさいだ上に、三石三升の大豆を炒って投げつけ、鬼の目をつぶして難を逃れたことも、併せて書かれています。
豆には「魔を滅する」という意味があり、生の豆を使うと「芽」が出てしまうため、「悪い芽を摘む」という意味で、炒った豆を使うようになったという説があります。
「豆を炒る」を「魔目を射る」、つまり「鬼の目を射る」という意味合いも含まれています。
鬼はなぜ角を生やし、虎柄の腰布をつけているのか?
そもそも、鬼はなぜ角を生やし、虎柄の腰布をつけているのでしょうか。
邪霊や、鬼神が出入りする方角を「鬼門」といい、古の人々はこの鬼門を忌み嫌い、様々に工夫を凝らして鬼門封じをしたほどです。
この鬼門は、北東で「艮(うしとら)」の方角にあたります。艮は干支に当てはめると「丑」と「寅」になります。
そう、この「丑(牛)」が角のイメージに、「寅(虎)」が虎柄の腰布のイメージにつながるわけです。
一方の、南西は「坤(ひつじさる)」で、鬼門同様に不吉とされる「裏鬼門」にあたりますが、この申から時計回りに見ていくと「申(猿)」「酉(鳥)」「戌(犬)」と、桃太郎の鬼退治に同行した3匹の動物に重なります。
鬼(鬼門)に対抗するため、反対側の方角に位置する動物によって対抗しようとしたのです。
「鬼」についてお話をすると、大変長くなってしまいます。今回を前編とさせていただき、次回も引き続き各社寺ゆかりの鬼についてなどお話ししたいと思います。筆者撮影の「鬼のミイラ」の写真も!
【「鬼」所縁の神社仏閣】
鬼神社(青森県弘前市)
真山神社(秋田県男鹿市)
鬼鎮神社(埼玉県嵐山町)
八幡宮(青森県弘前市)
稲荷鬼王神社(東京都新宿区)
鬼神社(福岡県豊前市)
鬼神社(大分県大分市)
東霧島神社(宮崎県都城市)
酒呑童子神社(新潟県燕市)
十宝山大乗院(大分県宇佐市)
他
参考文献
『神道辞典』国学院大学日本文化研究所(編)弘文堂
『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監修)二見書房
『神様になった動物たち』戸部民生(著)だいわ文庫
『東京周辺 神社仏閣どうぶつ案内 神使・眷属・ゆかりのいきものを巡る』川野明正(著)メイツ出版『災厄をはらい、生きる力を授ける来訪神 : 古代より日本各地に伝わる民俗伝承』(WEB)
『サントリー美術館・酒伝童子絵巻』(WEB)
久保多渓心 のプロフィール

画家の父、歌人の母のもと、福岡市博多区で生まれる。
バンド活動を経て、DJ、オーガナイザーとしてアート系イベント、音楽イベントなどを多数手掛ける傍ら、フリーライターとしても活動。
音楽雑誌でのアーティスト・インタビュー記事、書籍、フリーペーパー、WEBなどの媒体で政治、社会問題から、サブカルチャー、オカルトまで幅広いジャンルでコラムを執筆。
引きこもり、不登校、心の病など自身の経験を活かし「ピアカウンセリング」を主軸にしたコミュニティを立ち上げる。後にひきこもり支援相談士として当事者やその家族のサポート、相談活動にあたる。
現在は亡き父から継承した一子相伝の墨を用いた特殊な占術『篁霊祥命』や、独自のリーディングによって鑑定活動を行っている。2021年で鑑定活動は16年目を迎える。
月参り、寺社への参拝による開運術の指導なども行う。
『AGLA(アグラ)』スーパーバイザーを務める。
2020年10月より活動名をマーク・ケイより、久保多渓心に改名。