2019.10.10
「きぬかけの路」が結ぶ、謎に満ちた「石庭」と京都・主要神社のご祭神が集う「九所明神」〜

きぬかけの路を歩いて龍安寺へ

龍安寺 庫裡
京都の洛西に位置する観光道路「きぬかけの路」を金閣寺側から歩くと、臨済宗妙心寺派の寺院である「世界遺産・龍安寺」があります。
龍安寺は枯山水の石庭で有名で、海外からも多くの観光客が訪れています。白砂の上に配置された15個の石は見る者の想像力を無限にかきたて、哲学と禅の果てしなき宇宙に誘われるかのようです。
石庭の石は15個ありますが、どうしても全ての石を一度に見ることが出来ません。ある一定の場所からは、15個の石を確認することが出来ますので、その場所を探してみるのも面白いのではないでしょうか。
この石庭にはいくつかの謎があるといわれます。
まず作者が不明なこと。「特芳禅傑(とくほうぜんけつ)」という室町時代の禅僧によって設計されたとする説もありますが、15個のうちの石の一つに「小太郎・清二郎」という刻印が見られることなどから、現在でも作者ははっきり特定されていません。
そして土塀の謎。実はこの正面に見える土塀は、左側の方が右側よりも約50cmほど高くなっています。石庭への入口が手前(写真左側)にあるので、手前から石庭の奥へ進むほどに土塀を低くすることによって、石庭が実際よりも広く見えるという遠近法を駆使しているのです。
他にも、この石庭は何をイメージして作られたのか、そしていつ作庭されたのか、謎は多いのです。こうした謎に、自分なりの解釈を当てはめながら石庭と対峙すれば、この庭の持つ醍醐味を十分に感じられるでしょう。

石庭
もう一つ龍安寺で有名なのは方丈の北東にある「蹲(つくばい)」です。つくばいは、縁側近くの庭の一角に置かれる手水鉢のことで、茶室に入る前に手を洗い清めるためのものです。
つくばいは背が低いので、手を洗うときにどうしてもしゃがまなければなりません。この「しゃがむ」という動作のことを「蹲う(つくばう)」というため、露地(茶庭)にある手水鉢のことを「蹲(つくばい)」と呼ぶようになりました。
龍安寺の「蹲(つくばい)」は円形の上の部分に「五」、右に「隹」、下に「疋」、左に「矢」の文字が見えます。水が溜まっている口の部分を文字として共用すると「吾唯足知(ワレタダタルヲシル)」と、禅の格言となります。「知足」として知られるこの格言は老子の「老子道徳経」や、釈迦の「遺教経」の中で説かれているものです。

知足の蹲
私たちは自分に「ない」と思う要素を必死で付け加えようとします。あれも欲しい、これも欲しいと多くのものを手に入れようとし、それによって傷付きもします。
自分という存在は、何も持たずして、それだけで尊い存在であり、完成形なのだと思えば自分を愛せます。足し算の人生よりも、引き算の人生の方が素晴らしいという、現代に生きる私たちへの静かなメッセージが、ここにあるような気がします。
龍安寺から仁和寺へ

仁和寺 二王門
龍安寺を出て、次に見えて来るのが「世界遺産 真言宗御室派総本山 仁和寺」。
開基は第59代天皇の宇多天皇です。
「きぬかけの路」という名称は宇多天皇が「真夏に雪見をしたい」と衣笠山(龍安寺と金閣寺の中央に位置する標高201mの山。別名きぬかけ山)に白絹を掛けられた故事に由来しています。
仁和寺は仁和4年(888年)に創建された大変歴史の古い寺院です。開基された宇多天皇は寛平9年(897年)に皇太子敦仁親王(後の醍醐天皇)を元服させた上で譲位し出家しました。以来慶応3年(1867年)まで皇室出身者が住職を務める門跡寺院でした。
仁和寺は見所も多い寺院です。京の三大門の一つに数えられる二王門(他は南禅寺と知恩院の三門)、国宝の金堂、重要文化財の五重塔、御影堂、観音堂、経蔵。そして最も有名なのは遅咲きで背丈の低い御室桜が咲き誇っている風景でしょう。京都では春の終わりを告げる風物詩として愛されています。

御室桜と五重塔
ひっそりと佇む九所明神
さて、この仁和寺の境内の北東最奧、経蔵の近くにひっそりと神社が鎮座していることにお気付きの方は意外と少ないようで、いつも観光客はまばらにしかいらっしゃいません。「九所明神(くしょみょうじん)」といい、こちらも重要文化財に指定されています。

九所明神
本来は境内の南側にありましたが、建暦2年(1212年)に現在の場所に遷宮されています。現在の社殿は寛永年間(1624〜1644年頃)の建立です。
「九所明神」の名の通り「九所(座)」の明神が祀られています。
中央の一間社流造の社殿には、石清水八幡宮の八幡三神(八幡三神とは応神天皇、比売神(ヒメガミ)、神功皇后を指します)。
左右の四間社流見世棚造の社殿。
まず右(西殿)には、松尾大社の松尾大明神、平野神社の平野大明神、日吉大社東本宮の小日吉台明神、木嶋坐天照御魂神社(木嶋神社・蚕ノ社)の木野嶋天神。
左(東殿)には、賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)の賀茂上下、日吉大社西本宮の日吉大明神、八坂神社の牛頭(ごず)天王、伏見稲荷大社の伏見稲荷大明神。
京都を代表する有名な神社の御祭神が一堂に会しているといっても過言ではありません。応仁の乱による伽藍の消失などもありましたが、これだけ豪華絢爛の神々の守護があったからこそ、本尊の阿弥陀三尊像は消失を免れ、現代に伝えられているのでしょう。
京都旅行をしたのだけれど、時間がなくて神社仏閣巡りが出来なかった!そんな時にはこの「九所明神」を参拝すれば、九つの由緒ある素晴らしい神社へ参拝したことになります。
金閣寺から「きぬかけの路」をゆっくり歩いて、または嵐電で車窓を楽しみながら、この仁和寺へ訪れてみては如何でしょうか。
仁和寺「水掛不動」の不思議
もう一つ「仁和寺」にはお勧めしたい場所があります。
金堂の裏手に位置する「水掛不動」です。
近畿三十六不動霊場の十四番札所でもあります。
京都は一条通りの堀川にかかる一条戻橋という橋があります。こちらの橋には様々な奇怪な話が伝わっています。
安倍晴明が式神を隠していた橋。百鬼夜行に遭遇する橋。異界への出入り口。渡辺綱が鬼の腕を切り落とした橋...など。

水掛不動尊
こちらにある不動明王像は京都が大洪水となった折の復旧作業時に、一条戻橋のたもとで発見されます。この付近に住む町民の夢に件の不動明王が現れ「仁和寺に戻りたい」と告げました。これに驚いた町民は不動明王像を仁和寺に戻し、この岩の上に祀ったそうです。
それ以来、所願成就、子供の病気平癒に霊験あらたかとなり評判を呼びます。

水掛不動と菅原道眞公の腰掛石
不動明王が鎮座するこの岩は菅原道眞公の腰掛石といわれるものです。道真公が宇田法皇(天皇)を訪ねたところ、あいにく勤行中であったため、この石にお座りになって待ったと伝えられています。後にこの石からは水が湧き出て、以降涸れることがないとか。こうした二つの伝承が折り重なった場所なのです。
長い柄杓で湧水をすくい、不動明王にかけながら願い事をします。祈願成就のお礼に訪れるかたが後を絶たない水掛不動。是非、仁和寺へご参拝の折は、こちらも立ち寄られてみては如何でしょうか。

仁和寺 二王門 金剛力士像
久保多渓心 のプロフィール

画家の父、歌人の母のもと、福岡市博多区で生まれる。
バンド活動を経て、DJ、オーガナイザーとしてアート系イベント、音楽イベントなどを多数手掛ける傍ら、フリーライターとしても活動。
音楽雑誌でのアーティスト・インタビュー記事、書籍、フリーペーパー、WEBなどの媒体で政治、社会問題から、サブカルチャー、オカルトまで幅広いジャンルでコラムを執筆。
引きこもり、不登校、心の病など自身の経験を活かし「ピアカウンセリング」を主軸にしたコミュニティを立ち上げる。後にひきこもり支援相談士として当事者やその家族のサポート、相談活動にあたる。
現在は亡き父から継承した一子相伝の墨を用いた特殊な占術『篁霊祥命』や、独自のリーディングによって鑑定活動を行っている。2021年で鑑定活動は16年目を迎える。
月参り、寺社への参拝による開運術の指導なども行う。
『AGLA(アグラ)』スーパーバイザーを務める。
2020年10月より活動名をマーク・ケイより、久保多渓心に改名。